壱岐市芦辺町瀬戸浦は古来漁業を生業として来た浦で、明応の頃より捕鯨が行われ賑わいを見た。明応元年(1492年)「瀬戸浦塩津岬に漁業の安全を祈るため、蛭子尊を祀った。以来この地を恵美須浦と呼ぶ。」

 寛永4年(1627年)「同じく瀬戸浦先川に蛭子尊を祀る」とあり、これが「蛭子迎え」の起源と言える。(現在の恵美須事代主神社と瀬戸事代主神社で、爾来この二つの神社は「蛭子様」として地元住民の厚い信仰を集めてきた)

 明治39年、最初の定置網が敷設され、網子若衆が宿泊する定置納屋が設けられた。その納屋の神棚に蛭子尊を勧請したのが、現在に継承される「蛭子迎え」である。 この神事(10月下旬)は一年間の海上安全と大漁を願い行われるもので、御神体をお迎えに行く網子二人を番籤・当籤で選ぶ事から始まり(籤を引くことが出来るのは、一年間家に不浄が無く、両親共に健在の網子だけである)そして神迎祭がその三日後に行われるが、選ばれた二人の網子が子の刻より丑三つ時までに身を清めて褌を着け、蛭子様を授かる竜神岬の海浜に向かう(道中は出来るだけ人目をさけ、二人の会話さえ禁物)

 浜に着くと、一人が蛭子神の御神体を素潜りで探し御神体を授かる。そして素早く茜襷、白襷に包み薦で巻いて、人目に触れないよう納屋に持ち帰り神棚前(神棚には赤・白の布を重ねた座布団を敷く)に安置する。宮司はこの新しい御神体に奉書で作った御神衣をお着せした後、遷座の式を奉仕する。一年間の役目を終えた御神体は、貴船神社の境内末社(写真)に数年間奉祭され、定置網のある海中にお返し申し上げる。


平戸島最南端の宮の浦に鎮座する「志々伎(しじき)神社」沖津宮 (おきつみや) で毎年11月8日に行われる。前日夕刻、沖津宮より辺津宮 (へつみや) へ御神幸が行われ一泊。当日午前、志々伎神社辺津宮で例祭斎行(平戸神楽奉納)

 祭典中に世襲の社役である柴山家二家の戸主により「ヤマド祭り」が行われ、その後沖津宮へ還幸。還御祭後に「宮巡り」がある。これは宮司が先導、神職・参列者が続き社殿の周りを回り、一巡する毎に社殿に拝礼し、三巡する儀式である。

 その後に行なわれるのが「古代神相撲」である。この行事もヤマド祭りを奉仕する柴山両家の歴代戸主によって行われる。二人は紋付袴の正装で社殿前の斎場に降りて神殿へ一拝。次いで着物の片袖を脱ぎ双方向かい合い「エイッ」「オーッ」の掛け声で互いに相手の上腕を握って取り組み、左に三回、右に三回まわり、「ヤーッ」の掛け声で互いの手を離し、向かい合って膝をつく。この所作を三度繰り返す。最後に神殿に一拝して神相撲は終了する。

 神相撲は現在の相撲の原形ともいわれ、これらの祭事は、寛文2年(1662年)の『志自岐七社御祭禮帳』の「宮の浦御祭礼」祭事に「三番宮巡り」「五番御相撲」とある。

 

  五島市玉之浦町大宝郷、事代主神社の秋まつりは、地元で「ずなうち」と呼ばれる。その名の由来は、御神幸行列の最後尾に、砂鬼と呼ばれるサンドーラ(藁の浅蓋)をかぶった者がいて、砂をだれかれかまわず打ち付けて回ることにある。

 祭事は旧暦9月28日から29日にかけて行われ、28日の宵宮には五島神楽が奉奏され、翌29日に御神幸行列を組んで村まわりを行い豊作と豊漁を祈願する。

 この行列は猿田彦・獅子・幟・御幣・神主・巫女・女形・稲かけ・かけ魚持ち・くわ・トンガ・杵・サンドーラで構成されており、笛・太鼓にあわせて村を一巡する。道中の決まった場所(六ヶ所の田所)ではトンガで土を耕し、サンドーラが砂(種)をまき、トンガで土をかけ、杵でつく所作が行われるが、これは耕作から収穫を表した模擬的農耕神事である。又、サンドーラは前述の通り、見物人や家等をめがけて砂を打ちつけるが、これは災厄を払い疫病退散の為だと伝えられている。

 この祭りは、昭和54年12月8日に無形民俗文化財として、国より選択されている。

 

西彼杵郡長与町吉無田郷(よしむたごう)に伝わる獅子舞は、文化文政年間に長崎の矢上中尾村から伝わった。それ以前は吉無田郷では浮立 (ふりゅう) が行われていたが、多くの人数が必要なために当時戸数七十戸の部落では浮立を出すことが負担になっていた。

 そこで「長崎くんち」の出しものであった矢上の獅子舞を見て、少人数でも見栄えする出しものを探していた吉無田郷の人々は深く感銘し、中尾へ教えを請い長与の獅子舞が始まることとなった。現在は10月の麻利支尊天王神社の例祭日に奉納される。

 獅子は二人立ちで、笛・鉦 (かね)・太鼓の調子に合わせて玉使いにあやされながら、牡丹の花にじゃれる獅子を演じる。踊りは月の輪・火の輪より始まり、玉使い(金の玉、銀の玉)~大太鼓・小太鼓・獅子・はやし方の順で進む。踊り手はとんぼ返りをしながら「獅子はねる」「こまころび」「かはえ追い」などを巧みに組みあわせる。

 現在、獅子舞保存会がその伝承保存に努め、近年では子供獅子も加わり四人立ちで行われている。「吉無田くんちは」摩利支尊天王神社祭礼に合わせて行われ、内園・井手本・辻後・池山の四自治会の交代で行事が営まれている。当日は宮司による例祭が斎行され子供相撲・獅子舞が奉納される。

 

 かつて捕鯨で栄えた新上五島町有川には、これを彷彿とさせる高さ4mほどの鯨の顎骨でできた鳥居を持つ神社がある。十七日祭りはこの海童神社の祭礼で、名前の由来はこの祭が旧暦6月17日に行われていたことによる。現在は運営上の理由から幾度の変更を経て、夏休みに入った7月の最終日曜日が祭礼日となっている。

 起源は社伝によれば、元和年間3ヵ年に亘り、有川の海で旧6月17日に子供や漁師に水死者が相次いだ。そこへ村の乙名役高井良福右衛門に海童神の神託があり、それに基づき現地に祠を建て即席のにわか芝居を奉納したところ、水死者も出なくなったという。

 現在は有川地区六か郷より九組の山車(地元では山と呼ぶ)を設え、太鼓、鉦 (かね)、三味線、芝居役者達、総勢50人ほどが一組を形成し、海童神社を皮切りに各山順に町内10カ所の披露場所を廻る。

 これらの山車は横幅2m、奥行き1mほどの小舞台で、披露する寸劇にちなんだ背景画が描かれ、その舞台の前で各山が趣向を凝らした時代物や現代物の劇を披露する。この寸劇は「にわか」と呼ばれ、最後に必ず「落ち」が付くのが特徴で「にわかじゃー」の歓声と共に劇は終了となる。
 以前ほどの賑わいは薄れてはいるが、地域力に支えられた、正に住民総出の貴重な祭りである。

 

  諫早市南部の橘湾に面する(旧北高来郡)飯盛町・旧田結村の氏神として鎮座する歳神社に伝わる田結浮立(たゆいふりゅう)をご紹介します。

 歳神社(橋本忠彦宮司)では、毎年八月の最終日曜日に八朔祭りが行われます。これに奉納される芸能が田結浮立と呼ばれています。八朔祭りの当日は、田結港の沖合いでの「樽納め」の儀式があり、神社での神事に続いて田結浮立が奉納されます。

 田結浮立の起源は奈良時代の神亀元(724)年で、五穀豊穣・雨乞い祈願として始まりました。この年の秋、収穫間近の稲穂が高波に襲われものが自生のシャギ竹に結ばれて無事であったことから、神仏の御加護によるものとの感謝と、堤防を築かれた龍宮様へのお礼として垣踊りが奉納されたのです。

 江戸期に入り、さらに田結村の六つの地区から特色のある出し物が加わって今日の形になり、諫早領主の御用浮立として伝承され、県内各地の伝統芸能にも広く影響を及ぼしたと言われています。

 現在の構成は、垣踊り、蛇踊り、浮立、池下踊りに大別され、その出し物の種類は、傘鋒、道具廻し、掛打ち踊りや、勇壮な大太鼓舞など十数種類に及ぶ豊富さです。時代的にも室町末期から江戸中期の芸能まであって、県内で最も多彩であり、昭和55年に県の無形民俗文化財に指定されています。

 

 松浦市御厨町寺之尾免「八幡神社」にて、12月15日の例祭で、平戸神楽と共に奉納される舞。大きな木製の太刀を抱えて舞われ、所作は平戸神楽と同様である。

 木太刀は15戸の氏子中の有志により作られ、イタビの木を長さ140cm・太さ40cm位に全て手彫りにて作成する習わしとなっている。

 舞の起源は不詳であるが、江戸時代から続くと伝えられ、一説にはイタビの木は櫟(くぬぎ)の代用品として用いられたとも伝えられる。その年奉納される木太刀は大きいほど来年は豊年であると信仰され、昨今の大きさとなったものと思われる。

 木太刀の大きさと、その重さに苦労して舞う神職(また、その子弟)の姿に、氏子は喜び、神人和楽の麗しい姿を表す。毎年の祭礼に氏子の真心を捧げ、御神徳の下に家内安全・五穀豊饒を祈って今日まで伝えられている。

 また、木太刀と共に、やはりイタビの木で作られる弓が奉納される。その大きさは、梁まで届くほどで、これも以前は神職が手にとって苦労して神楽を舞っていたと伝えられる。その弓弦は、麻紐で作られるが、奉納した後は氏子が持ち帰り、鳥を捕獲する罠に使用していた。

 さらに、当神社の本殿の注連縄を麻紐で作られる習わしがあることも興味深い。

 

 諫早市街地を離れ長田を過ぎた白浜町に鎮座するのが、畳破りが行われる八幡神社である。

 行事は正月15日。近くの公民館に集結した上半身裸の藁帽子をかぶった若者衆が、威勢よく境内に走り出て、まず拝殿の内と外と二手に分かれる。拝殿入口に畳を立て、外側の若衆は境となった畳を破って中に入り込もうとする。
 内の者達は必死になってそれを防ぐ。そのうち外の若衆が内に入り込むと、誰れ彼となく内に籠もっている者達の身体に藁をこすりつける。

 この荒い行事は、外の者達は鬼であり、人間界に入り込み、稲藁をこすりつけることによってその年の稲霊を授けることを意味している。その霊力をいただくことによって、実り豊かな稲を作ることが出来る、言わば "春来る鬼の行事" と言える。

 畳破りが終わると、拝殿奥に坐した宮司を若衆達がかかえあげ、的を射る座にすえる。まず宮司が3本矢を射た後、今度は子供達によって的めがけて矢が射られる。矢の当たり具合によってその年の作柄を占う行事である。

 この歩射による作柄を占う行事は、同市内破籠井(わりごい)の熊野神社でも百手祭りとして行われるが、この八幡神社ではその行事が拝殿内で執り行われる点で、古い遺形を残していると思われる。この日、参道には多くの露店も立ち、白浜地区は終日お祭りで賑わう。

 

 10月26日 淀姫神社例祭の日、大祭・神幸式終了後行われる。正確な年代はわからないが平安時代 第73代堀川天皇の御代、寛治2年(1088年)には行われていたと古い記録にあり、当時 安部宗任 松浦郡司として当地に来た頃より始められたと言われる。

 当時の掟として射手乗馬には無位の者は射ることが出来なかったが、松浦鎮信公時代 明暦3年(1657年)より社人の射手となり明治以降一般の者の射手を認められ現在に至っている。
 又、豊臣秀吉公朝鮮出兵の時、志佐領主 松浦源六純高公の謹願により凱旋報謝のため参拝され甲冑着用にて行われ、毎年旧暦9月26日に代々奉仕された。

 的は、ねむの木(こうかの木)で作り、3ヶ所に立てる。この的は淀姫神社5地区、松山神社6地区より作られ、計11本立てられる。射手は2名にて奉仕するのが本義である。平成6年まで人手不足のため1名の奉仕であったが、現在は旧に復し2名にて奉仕されている。射手は烏帽子・狩衣を着用して、3ヶ所の的を順に射る。

 観客は馬が走るときに起こる的風に当たると無病息災といわれ、老若男女が集まる。放たれた矢を拾うと良い嫁がもらえるといわれ矢に向かって皆が我先に群がる。的木は五穀豊穣のお守りとしてそれぞれの地区に持ち帰り、関係者が頒けて、自宅の神棚に祭り繁栄を祈る。